ウズベキスタンって

どんな国でしょう?

ウズベキスタン基本情報

【正式名称】ウズベキスタン共和国

【面積】44万8,900平方キロメートル(日本の約1.2倍)

【人口】3,530万人(2022年:国連人口基金)

【首都】タシケント(Tashkent)

【民族】ウズベク:83.8%、タジク:4.8%、カザフ:2.5%、

ロシア:2.3%、カラカルパック:2.2%、タター

ル:1.5%、その他:4.4%( 2017年)

【言語】公用語はウズベク語(テュルク諸語に属する。但し,タシケント,サマルカンド,ブハラ等主として都市の諸方言はペルシア語の影響を強く受けている)。またロシア語も広く使用されている。

【宗教】イスラム教:88% (主にスンニ派), 東⽅正教:9%、その他:3%

【時差】日本よりマイナス4時間

ウズベキスタンと日本の交流は

ウズベキスタンと日本の交流はシルクロード交易が盛んな時代から行われていたと考えられています。

奈良からローマまでの道のり「古代シルクロード」。

奈良県にある正倉院の宝物として有名な琵琶や箜篌といった楽器。近年、それらが描かれている浮き彫り板絵が、サマルカンド市のカフィル・カラ城から発掘されました。そのことから、シルクロードを通じて間接的にではありますが、ウズベキスタンと日本の交流が行われていたとされています。

タシケント市

シルクロードの各都市は、大きく二つのグループに分けることが出来ます。一つは街中にシルクロードのオアシス都市らしい中世的雰囲気をとどめているサマルカンドやブハラ、ヒヴァ等の街々。もう一つは、史書には古くからその 様子が書かれていても、歴史的景観が見られないフジャンド、ビシュケク、アシガバード等で、タシケントもその一つです。

人口: 約240万人(首都。中央アジアでは最大)

面積: 334. 8㎢(名古屋市は326. 5㎢)

概要: 1966年の地震により大半が壊滅し、復興計画に基づいて再建された都市。中央アジアで初めての地下鉄も運行

アミール・ティムール広場

タシケントの中心。この公園の中央には馬に乗った偉大な司令官の姿の像が建っている。公園の周りには、真っ白に目立つフォルム(国際会議場)、ホテル・ウズベキスタン、アミール・ティムール博物館、法科大学、ふたつの時計台が建ち並ぶ。タシケント観光ルートを選択するにはここをスタートにすると良い。北、西、南の順で観光スポットを紹介する。

タシケントタワー

北へ向かうと、中心からも見えるテレビ塔が近づいてくる。1985年に完成した中央アジアで一番高い建物。高さは375m、100mと200mの高さにテレビ・ラジオ放送局と測候所がある。展望室や回転するレストランがあり、タシケントの景色を一望できる。入場には要パスポート。北隣にはプロフセンターがあり、いつも賑う。南側一帯は遊園地や日本庭園などがあり、市民の憩いの場である。

ナボイ・オペラ・バレエ劇場

1947年に完成の1500名収容の劇場。この劇場の建設には、日本人も携わった事は有名である。第二次世界大戦後、1945~1946年にかけてタシケントに抑留された数百名の旧日本兵が参加した。強制労働にも関わらず、こうした見事な建物を造り上げたことは伝説になっている。 前庭には大きな噴水があり、夏は市民の憩いの場である。

サマルカンド市

サマルカンドはウズベキスタンの歴史都市であり、シルクロードの要衝地として栄えたオアシス都市です。ティムール朝の時代に、青いタイルで装飾されたモスクや霊廟が多く建設され、その美しい青色は「サマルカンドブルー」と呼ばれています。

 歴史的建造物と真っ青な空のコントラストが美しい サマルカンドは「青の都」とも呼ばれています。平成13年(2001年)に「サマルカンド-文化の交差路」としてユネスコ世界文化遺産に登録されました。

サマルカンド国際空港

ウズベキスタンの古都に誕生した、本をパッと開いたような形状が特徴的な〈サマルカンド国際空港〉。

15世紀のティムール朝君主にして、優れた学者として知られるウルグ・ベクが著した天文学の書物に発想を得たデザインだ。国際的な活躍がめざましいトルコ拠点の大手建築事務所〈KIKLOPデザイン〉が設計を手がけている。

シャーヒズィンダ廟群

アフラシャブの丘の南部にある聖地で、今も巡礼で訪れる人の姿が絶えない場所です。きれいなタイルと細密なモザイクで装飾されたティムールゆかりの人々の霊廟とモスクが一直線に建ち並んでいます。シャーヒズィンダとは「生ける王」という意味であり、7世紀にイスラム教布教のためサマルカンドを訪れたクサム・イブン・アッバースがこの地に眠るという伝説に由来しています。

レギスタン広場

サマルカンド市内の中心部にある、三方をメドレセに囲まれた広場です。メドレセとは、アラビア語で「教育と学習の場」を意味し、レギスタンとはウズベク語で「砂の場所」を意味します。

 青いドームの建物が青い空に映え、まさに「青の都」の名に相応しい景観です。

ブハラ市

ウズベキスタンにはシルクロードとゆかりのある都市がたくさんあります。シルクロードを代表するオアシス都市、ブハラもそのひとつ。2000年以上の歴史を持ち、古くから交易都市として栄えました。ブハラは新市街と旧市街とに分かれ、中心部にある旧市街は「ブハラ歴史地区」として街全体が世界文化遺産に登録されています。ブハラには、中央アジア最古のイスラム建築物など見逃せないスポットが盛りだくさん。今回は、ウズベキスタンに行ったら必ず訪れたいブハラの観光スポットについてご紹介します!

ミル・アラブ・メドレセ

ミル・アラブ・メドレセは、ブハラの中心で現在もなおイスラム神学を教える由緒正しきメドレセです。メドレセとはイスラム教の教義を教授する学院のことで、カラーン・ミナレットの下にあるイスラム教の神学校です。近代高等教育の普及とともに衰退し、観光地と化したメドレセが多い中、このミル・アラブ・メドレセは140名の生徒が学ぶ現役の学校です。また、教育機関として現存しているだけでなく、有名なイスラム教神学者を多く輩出しているエリート校でもあります。宗教を禁じていたソ連政府さえも、このメドレセを廃止することができなかったそう。

アルク城

ウズベキスタン ブハラ市街地の北西部にあるアルク城は、歴代ブハラ・ハーンの居城でした。ブハラのシンボルとも言える観光地で、ブハラ観光には欠かせないスポットです。「アルク=城塞」の意味の通り、丸みを帯びた壁はどっしりと重厚感があり、茶碗を伏せたようなユニークな形をしています。最新の発掘調査によると、少なくとも紀元前4世紀頃から存在していたことが分かっています。長い歴史の中で外敵による攻撃などで荒廃を繰り返し何度も建て直されましたが、長い間ブハラの街を守ってきました。

カラーン・ミナレット

カラーンは「大きい」という意味で、ミナレットはモスクに付随する塔のことです。その名の通り約46メートルもの高さがあるカラーン・ミナレットは、ブハラ市街の中で一番の高さなので、街のシンボルにもなっています。完成は1127年ですから、900年も前になります。ミナレットは、見張りの塔としての役割の他に、旅人の目印でもありました。ブハラを目指してやってくる旅人は、遠くからこの塔を目指してきたと言います。また、袋に詰めた受刑者をミナレットの屋根から投げ落とし処刑したので、「死の塔」とも呼ばれます。ミナレットのすぐそばにはカラーン・モスクがあり、そこからミナレット内部に入ることができます。105段の螺旋階段を上って頂上まで行くと、360度ブハラの街並みを楽しむことができます。

ヒヴァ市

ヒヴァ市は、もともと建築家によって考案されたように、そのアイデンティティを維持することができた数少ない都市の1つです。ヒヴァは「生きている」記念碑であり、市立博物館です。

伝説の1つによると、最古の都市は聖書のノアセムの息子によって設立されました。彼は砂漠の真ん中に井戸を掘ることから始めました。キャラバンや商人が通りかかって、驚くほどおいしい水を味わい、「ヘイワク」、つまり「どれだけおいしい」と唱えました。このようにして、この素晴らしい街が現れました。

ウズベキスタンの世界遺産都市

ヒヴァで穴場の古代遺跡探訪

ヒヴァに到着すると、最初に目にするのは、イチャンカラの都心部にある巨大な防御壁です。その壁の後ろで、現実感は完全に消されています。25ヘクタールで、2500年以上前の魔法のヒヴァが君臨しました。この都市は、グレートシルクロードの北側の支線の中心でした。

ヒヴァの歴史

最も豪華な記念碑的な建物の建設は、18世紀から20世紀初頭に行われました。その後、ヒヴァはクングラト王朝によって統治されました。1763年、ウズベキスタンのクングラット家の著名な代表であるムハンマドアミンがホレズムで権力を握った。彼の下で、ヒヴァは可能な限り短い時間で中央アジアの精神的な中心になりました。彼のおかげで、世界はイチャンカラの壁や塔、有名なサラートアルジュマモスクなど、多くの復元された建物を見ました。

壁に護られた砂漠の城砦都市

19世紀半ば、アッラクリハンの主導でディシャンカラ防御サークルが構築されました。したがって、ヒヴァは2つの都市を1つに結合します。外側のディシャンカラと内側のイチャンカラです。

1873年、ヒヴァはロシア軍に捕らえられました。ヒヴァのすべての建築記念碑は保存されています。現在、この素晴らしい街はユネスコの支援を受けています。

ウズベキスタンの代表的な料理

サラダ、スープ、メイン料理、お菓子…、ウズベキスタンの料理は「踊りと料理は体で覚えるもの」と言われているように、経験によって腕を上げるもの。細かいレシピよりも勘で伝えられて覚えていく。だから、同じ料理でも地方で、家庭で、色々な材料や作り方がある。

また、ロシア料理、トルコ料理、韓国料理、西洋料理、他、色々な民族が生活している故、世界の料理が食べられている。しかし、ウズベク風にアレンジされて、ウズベク料理だと思い込んでしまう物もある。ウズベキスタンでは、シルクロードの交差点ならではの食文化が楽しめるのだ。

ウズベキスタンでは、米はよく食べられているが、主食はノン。小麦粉を使う料理が多い。また香草が多く使われている。ウズベキスタンの代表的な料理の一部を紹介する。

プロフ

これほど種類の多い料理はないウズベク風のピラフ(炊き込みご飯)。オシュともいう。コゾンという大きな鍋で、大量の油で玉ネギをよく炒め、肉の塊を入れて炒める。そこにニンジン、ひよこ豆、レーズン等を入れ、塩とジラ(クミン)で味付けする。煮込んだあと米を入れて炊く。日本人には少々油っこいので、食後には熱いお茶を飲むのがお勧め。

シャシリク

日本の焼き鳥のように、金串に刺して焼いたものはシャシリクと呼ばれている。肉は、羊、牛、鳥、豚、魚、他にトマトなどの野菜のシャシリクがある。肉でもミンチや塊、薄切りを重ねたり、丸めたり色々な形を工夫している店もある。付け合わせは、玉ネギの薄切りに酢をかけたもの。

サムサ

タンデルという窯で焼かれるミートパイ。地方によって形も丸、三角、四角、色々ある。挽肉と玉ネギ、脂が入っている。他にもジャガイモやカボチャ、春だけのホウレン草やミントをいれた緑のサムサもある。普段も軽食に、お祝いなどの時もよく食べられている。サムサに油をかけて食べる地方もある。